スティルマイン -13ページ目

ディズニーシー

友人が偶然チケットを2枚手に入れた、ということで初めてディズニーシー に行ってきた。


そう言えばここ数年ディズニーランドにも行ってなかった。普通にはしゃげるし嫌いではないのだが、男の子としては積極的に「好き!」と言いづらい場所でもある。加えておっさんなのになんだか泣きそうになってしまうから微妙な苦手感もある。自分の中の何処か奥の粘膜を突付かれる感覚と言うか。ヘンなところを刺激され漏れてしまう微妙な感情。

入ってみるとなかなか良い雰囲気。聞いていた通り、シーは大人向けだと思った。あのミッキーとかの耳型カチューシャもサイズが小さめ、控えめに思えたし。
そう言えばああいう耳はどこで外すのだろう。外してるとこ見たことない。着けてる大人が冷静になる瞬間を見てみたい。



まず最初に乗ったのはインディ・ジョーンズ、懐かしいテーマソングにテンションが上がる。ジョン・ウィリアムズ強い。
しかしいきなり大好きなインディに怒られてしまう(心当たり無いのに「~を怒らせたのは君たちだな!」とインディに怒鳴られる。インディを怒らせたのは事実だ)。ショーティのようにインディと一緒に冒険できると思っていたのに。悲しい。
そして猛スピードでジープは進み、目まぐるしくあっという間に終わってしまう。
最後には冒険に疲れたインディが見送ってくれる。嬉しい。けど似てない。


次はストームライダー、ランドで言うところのスター・ツアーズなのだがそれ程楽しくない。普通だ。
と思いきや途中からヤバくなる。ちょっと泣きそう。と言うか許されるなら号泣さえできたと思う。好きなタイプのキャラではないのだがキャプテン・デイビス、熱い。良い(声も良い)。


無事竜巻から生還後、喫煙所で浸る。嗚呼、キャプテン・デイビス・・・
友人は泣きそうになっている私を笑い「アレの何処に泣く要素が?!」といった感じで理解しなかった。私も上手く説明できないし変だとも思う。皆がワーキャー楽しい中、泣きそうな私。ああいう少年ジャンプ系王道な熱さに弱いのだろうか。それだけでは無いのだがやはり上手く説明できない。



続いてシンドバッド、海底2万マイル、アンコール等を楽しんだ。


アトラクションの待ち時間には化粧がきつくパンチなパーマで襟足のみが5センチストレート、という異形なおばちゃんと遭遇する。アトラクションの一つだったのかもしれない。


アンコールでは隣に座った熟年夫婦が開演までずっと口論していた。夕方にもなるとそら疲れるし苛々もするわな。あともう少しだ、頑張れ。
他の細かいイベントは概ね「たけーよビール、少ねーよ喫煙所」といった感じだ。


8時過ぎになんだか良く分からない水上ショーを見る(調べた。ブラヴィッシーモ!だ)。水ジャー、火ボー、ジャーボージャーボー、余り楽しめなかった。近くで見たらまた違うのかもしれない。



そして最後にセンター・オブ・ジ・アースを体験。これは6人乗りのコースター系のアトラクションで、私たちは男性4人組のグループと相乗りになった。その4人組は一見大人しそうな若者たちなのだが、一番後部に座っている友人と私お構いなしにはしゃぎまくる。酔っていたのだろうと思う。


しかし声が大きい、フラッシュで写真を撮る、会話内容とはしゃぎっぷりがサムい、とまあびっくりする程大らかな困ったちゃんっぷりに友人と私はドン引き、始まった瞬間からアトラクションどころではない。文句を言おうにも楽しんでいる彼らをシラけさせるのは・・・と思ったり、怒鳴るのも大人げないよな・・・と思ったり、何よりそんなことを考えさせられていること自体に苛々した(思い出しても苛々する(読み返しても苛々した))。
そもそも向こうを気遣う義務は無いし彼らの騒ぎ声にこちらこそ楽しむ権利を奪われている訳なのだが、私のハートは「夢の国でキレてはいけない」とジャッジした。大人だ。と言うより例えキレて向こうが大人しくなったところで楽しい雰囲気は戻って来ないんだよな、こういう場合。そこら辺が難しい。


だからほぼアトラクションの内容を覚えていない。あんにゃろうどもめ。



疲れ果て、帰ろうとゲートに近づくにつれ、人の流れの中に光るおもちゃを手に持つ子供が増えてきた。扇風機のような形をしており、ボタンを押すとカラフルに点滅しながらクルクルと回る。日常が待つ寂しい夜の中、所々ピカピカする。キレイだった。


子供の頃はああいうおもちゃが欲しくてしょうがなかったが親に言い出せなかった。高額なのを知っていたし子供っぽくねだるのは恥ずかしかったから。
そういうことを思い出してしまう。だからディズニーランド系は私にとって毎回なんとも言えない微妙な経験になる。



挨拶

天気が安定しないイギリスでは「挨拶代わりに天気の話をする」と言うジョーク(或いは誇張(或いは結構事実とも思う))があるが、それは季節や天候が共通の話題として無難だということもあるのだろう。


しかし老人にとってはより身近な問題だ、季節や天候は体調や生活リズムと密接に関わっている。もちろん慣習的な側面も強いのだろうが、そのような存在だからこそご老人同士、相手を思い遣ったり共感できるような美しい挨拶ができるのだろう。


ご老人とお会いするとき必ずと言って良いほど季節に触れる挨拶から始まる。
最近は「ようやく暖かくなってきましたねー」だ。そこには「嬉しいねえ」の意味が強く込められている、社交辞令の「ご挨拶」として以上に。


冬には「寒くなってきましたね」「寒いですねえ」、そこには「お互い辛いですなあ」といった連帯感があり、今の時期はそれをやっと越えた春だ。ご老人と一緒に季節を感じ、その喜びを共感できる挨拶をできるのは嬉しい。最近特にこのような季節や天候から始まる挨拶が美しいと思うようになってきた。


先日お会いしたご老人に意識的に「暖かくなってきましたね」とこちらから言ってみた。

向こうはそうですねえ、とニコニコ返してくれたのだが、実感としてはどうやらまだまだのようだ。


このような挨拶を自然にするには年季が足りない。私のはあまり美しくない。
いい歳して背伸びをしているようで少々こっぱずかしかった。


せいぜいこれを読んでくださる方に「暖かくなってきましたねえー」と言いたい。ヘラヘラ照れつつ。

バンクシー

自分の絵をこっそりと有名美術館に飾ったバンクシー。この事件ニクい感じで面白いとは思った。彼のサイトを見る限りでは作品も楽しそうだし。
グラフィティ描く人は活動の場が減っているのだろうな。でも何故美術館に。単なる制度批判か?と思いきや、インタヴューで以下のように語っている(以下の「」内はエキサイトニュースより引用)。

「実は、姉の行動がきっかけになったんだよね。ある日いきなり、姉がたくさんの僕の作品を捨てたんだ。なんでそんなことをするんだって聞いたら『こんな絵、ルーブル美術館のような立派な美術館で展示されるような絵じゃないわ。無駄よ』って言ったんだ。それがきっかけになったんだよ」

子供か。

この彼の行動により結果として美術館のセキュリティの甘さや美術愛好家たちの甘さが露呈しただろう(気付かないまま美術館でバンクシーの作品を鑑賞させられていた客が一番恥ずかしいのでは)。

しかしこういう愉快犯(今回は「いたずら」とも言われてる)に対する世間のリアクションは「ああ愉快だった」でオシマイということが多いような気がする。許され易くなる。「こいつの行動センスあるよねー」的なニュアンスが蔓延して空気的に批判しづらくなると言うか。「彼の行動こそアートなんだよねー言うなればー」みたいな。
私は彼の行動を否定したいと思う。

「メトロポリタン美術館で展示したガスマスクをした女性の肖像画は1日で撤去されたが、他の作品は数日放置されたままだった。バンクシーの作品は、強力な接着剤で壁に固定されていた。」

壊すな美術館を。


バンクシー・2 へ)

泣き声

夕方、信号待ちで泣きながら歩く女の子と一緒になった。
小学4年生位だろうか。大きいランドセルを背負い、重い足取りで歩いて来た。
黄色い帽子に顔を埋めつつも堪えきれずに声が漏れてしまう。
うっ、うっ、、ううっ、、!ととても辛そうに嗚咽するその子の近くで何故だか私まで泣きそうになる。何があったのだろう。誰かにいじめられたのかな。

話し掛ける訳にもいかず、距離を保ちながらただ同じ信号を待っていた。
そこへ友達らしき女の子が後ろから走って来て、心配そうな面持ちでその子の隣に寄り添う。その子に気付き、うううーっ!と一段と激しく泣く女の子。
良かった、もう大丈夫そうだ。振り返り、先を急ぐ。

子供の泣き声は痛い。関係ない大人にも刺さる。
きっと、かつてそういう風に泣いたことがあるからだろう。



スピーディ阿呆

先日の連休中に阿呆な友人と二人で飲み屋に行った。
そこはだいぶ古い店なのだがなかなか雰囲気が良くたまに利用している。

酒も進み爆笑しながら話しているうち、向かいに座っている友人が私の隣の席を見つめふと黙り込んでいる。
ボックスのソファー側に座っている私の隣、そこには私のジャケットが置いてあるだけだ。
少し怖くなる私。誰か見えるのか?
硬い表情でそのあたりを凝視し続ける友人。
その真剣さと赤ら顔が良い具合に阿呆度を高めている。

友人は勢い良く立ち上がり、空いている隣のテーブルのメニューを素早く左手に取る。
と同時にそれをソファーの背もたれへかざし、ズドンと右拳でメニューを一突き。ソファーに打ち付ける。
迷いの無い一連の美しい流れからの、素晴らしい右ストレートだ。
というか何をしてるんだ。

ゆっくり拳をどける友人、ハラリと落ちるメニュー。
ソファーに張り付くゴキブリ。
絶句する私。勝ち誇る友人。

ビビる後ろの客、私達に謝る店のおばちゃん。死骸を片付けつつメニューの使用法を理解し少々切れるおばちゃん。そら切れる。
(おばちゃんはメニューをそのままテーブルに戻していた。それこそビビる。)

私は友人のこの行動を大人な対応ではなかったと批判。
友人は私のジャケットを守ったと主張。しばし議論になる。
阿呆に負けた。やはりジャケットを助けられたのは大きい。

私は都会っ子なので街へ出ると安心する。賑やかな場所で飲むのも楽しいし落ち着ける場所でまったりするのも良い。


街中を無意味に徘徊したり座り込んだりするのも好きだ。歩く人をぼんやり眺めるのも楽しい。田舎産まれ田舎育ち、(頭の)悪い奴は皆友達な私の友人は逆で、人混みに出ると頭痛がすると言う。きっとメンチ切る相手が多過ぎるのだろう。



昨日もそういう感じで遊んでいたのだが、予算が尽きやはり街中を徘徊することにした。
そこで偶然知り合いの女性を見かけた。数年振りだ。思わず隠れる。

この女性とは良い友人関係だったのだが数年前に喧嘩をしてしまった。

彼女は繊細なハートの持ち主で小さなことにもすぐ萎れてしまう、あるいは過剰に反応する。


喧嘩のきっかけも本当に些細なことだった。しかし直接会わずにメールでやり取りをしているうちに雪だるま式に口論が悪化、最後は罵倒しあう勢いで縁を切ってしまった。大人な対応ができなかった私にも問題はあった。しかし「そこまで相手しきれない」というのが正直な心境だった。


仕方なく切れてしまうということはあっても意識的に縁を切るということは殆ど無い。私にとって彼女はそんな一人だ。



男性と二人で歩いていた。彼氏か?
うーわーすげーキレイになってる。もともと可愛かったもんな。
何より元気そうで良かった。

ママママ

たまに音楽が頭から離れなくなる。


先日は「サンバの日」だったらしく、朝にTVで見たマツケンサンバⅡが一日中頭から離れなかった(やはりイントロのフルートが強い。相変わらず何かを予感させるとてもハッピーなメロディだ)。


その番組では大規模なマツケン・ライブの映像も流れていた。
最後「オ・レ!」の決めポーズと同時に打ち上げられる花火に驚き間抜けな表情になってしまったマツケン。二日連続で見た。あの表情も離れない。

何故か今は「ウンジャマ・ラミー」の曲が頭から離れず寝られない。何年も聞いていないのに。


ゲームに疎いのだがこのゲームは名作だと思う。キャラクターも可愛らしかった。曲のリズムに合わせてコントローラー(ギター)のボタンを押すゲームなのだが、ノッてくると目を瞑り体まで震わせ、もう人に見せられた姿ではない。


そして曲も良い。今は3、4面あたりの曲、「ママママママママー」、これが頭から離れない。思い出すきっかけはなんだったのだろう。今日経験した何かが呼び起こしてしまったのだろう。


体までノりかける。だが普通の曲のように縦や横にノるのでなく私の手はコントローラーを連打したがる。
リズム正しく右手の親指を上下したい。なんてノり方だ。寝よう。

飛ぶ鳥は

おばあちゃん と再会する。

「おーほー」と互いの無事を喜び合う。おばあちゃんはベンチで雑誌を読んでいた。週間新潮だ。

顔を皺だらけにして苦しそうに活字を見つめている。読みづらいのだろうか。


「読める?」と聞くと、「うんー大きい字は読めるー」と答える。
見出しの大きい文字ではなく、「これは?」と本文の文字を指すと全く読めていない。写真を見ながら必死で見出しのみを追っているのだろう。


「眼鏡が合わなくなったんじゃないかな」
「いやーもう直すの勿体無いしねー。家ではムシメガネ使ってるんだけどねーははー」
このおばあちゃんは本を読むのが大好きだった筈だ。眼鏡が合わないと読書も一苦労だろう。

「眼鏡を直した方が良いと思うよ・・・」
「でも最近はこの頭が信用できなくてねーどうせ本を読んでもお話が頭に入らないんだよーはははー」
自分の頭を叩き悲しげに笑う。

「でも自分の頭が信用できないって厳しく判断してるのも自分の頭だからまだまだ大丈夫な筈だ」
上手く伝えられなくて、少々煙に巻くような言い方をしてしまった。

「わははー本当かねー本当は私も文章を書いたりしてみたかったんだよー」
知らなかった。驚くと同時にこのおばあちゃんを一面的にしか見ていなかった自分に気付く。
「へー、どういうことを書いてみたいの?」
興味津々で訪ねてみると難しい顔をし、遠くを見る眼で震えながら呟く。

「『・・・あそこに鳥が飛んでいる。あの鳥は私のことを分かって飛んでいるのだろうか』・・・」

意味は良く分からないが広がりとインパクトのある素晴らしい描写だと思った。色々なイメージが湧いてくる。


「凄いよ、なんだか情景的だね」
「はははー恥ずかしいー」
「本当に書いてみたらいいんじゃないかな。きっとボケるのも遅らせられるよ」
わははーと笑う。「私こんなこと人に言ったの初めてーははー」
恥ずかしいー、と何度も言う。



文筆家デビューするこのおばあちゃんを空想した。最年少よりも最高齢の方が痛快だ。
「頭が信用できなくても忘れちゃってもまずはどんどん本を読んで、思ったことを書いたりしたら良いと思うよ」
「おほほー、ありがとうー」
握手をして別れる。



きっと私にはその欠片すらも想像できないことを日々感じながら生きているのだろう。やはりジャイアントだ。
――飛ぶ鳥は私のことを分かって飛んでいるのだろうか?

ラッキーマン

セミナーにハマった友人 をきっかけに最近ぼんやりと「人間ってやつはよう」と考える。


その後具体的な進展は無いようだが友人はそこに所属することを辞め一人で立つことを決心したようだ。
そう報告してくれたこと自体を嬉しく思う。

マイケル・J・フォックスの「ラッキーマン」という自伝がある。

私にとってマイケルはどうしてもマーティ・マクフライでありそれ以上ではなく私自身特にファンでもないのだが、以前この自伝を読んだ(と言っても立ち読みだが)のはその帯にある言葉がきっかけだった。素晴らしい文句だと思う。
まるまる引用するのはまずいかもしれないので、おそらく間違えているであろう私の記憶を頼りに記してみる。


――神様 どうか私に
変えられないことを受け入れられるだけの平静さと
変えられることを変えるだけの力
そしてその違いが分かるだけの知恵を下さい


調べてみたら微妙に違ったが、大意は変わらない。この言葉はどうやら有名なようだ(すぐ検索できた)。

マイケル・J・フォックスはパーキンソン病にかかり役者を続けるに困難な状態になってしまったが、そういう自分を「ラッキーマン」であると書いている。この重病にかからなかった健康なままの自分には不可能な経験と思いをできたからだ。

そう言える境地に辿り着くまでにどれだけ辛い思いをしたのだろうか。運命を呪いもしただろう。
それでも自分は「ラッキーマン」なのだと言える彼の考えをポジティブシンキングと言うのは容易い。他人事として理解することもまた簡単だ。

だが彼がこう「神様」に願っているのは助けてくれる存在にすがっている訳でも他力本願な訳でもないだろう。
この願いの文句は自分が「ラッキーマン」である為に必要な決意の現れであって、それでもなお挫けそうになる「ラッキーマン」である自分を奮い立たせる為の宣言であるように思える。
負けそうになったら彼はきっとこの地点に戻って来る、すると再び「ラッキーマン」になれる。

前述の私の友人も含め誰でも何かにすがりたくなることはある。
しかし悔しいがどうしても受け入れなければならない厳しい現実は誰にでも存在する。それでも自分の力で変えることのできる現実もまた存在している。
そこには必ず違いがある、しかしその違いを見極めるのは難しい。当然私にも難しいし、私の友人もまたそうだったのだろう。

その違いを簡単に教えてくれるような助けが欲しくなる気持ちは分かる。その意味で(私から見て)怪しい救済をしてくれる団体にハマった彼と私の間に大きな違いはない。高い金と時間、そして「それまでの自分」を犠牲にして何かにすがるか、下手なりにでも自分でなんとか上手くやる方法を見つけようとするかの違いだけだ。

人間は弱い、しかし経験はできるしそれを糧にすることもできる。いつか酒を飲み、笑いながら私に「あん時の俺ってマジ危なかったよなーうっわーちょーヤベー!!」と以前のように鬱陶しくくだを巻いて欲しいと思う。鬱陶し過ぎたらその時にはセミナーを開き彼を改心させる。

春だねおっちゃん

遅い時間に地下鉄のホームで初老の男性に会う。
路上生活者風だった。彼の隣のベンチに座る。少し匂う。

「兄ちゃんどこ行くの?」
親しげに話し掛けられる。

「今から帰る所だ。おっちゃんは?」
「今日は寒いからさ」
なるほど。確かにホームの方が暖かい。しかし電車賃は・・・などといらないことを考えてしまう。

「今まで飲んでたの?」おっちゃんが聞いてくる。
「ああ。少しね」おっちゃんの手にあるワンカップ酒を見ながら答える。
「彼女とだろう。いいなあ」
「いや、友人とだ。寂しいもんだよ」
「だけど女の子もいたんだろう。いいなあ」
その明るい「いいなあ」に思わず笑ってしまう。

ふと急に思い出したように、
「兄ちゃん、煙草くれない?」
「・・・ああ。だけどここで吸っちゃ駄目だよ」
「うんうん」
少し迷ったが残っている煙草全部渡す。
おっちゃんは当然のことのようにそれを受け取る。
そのまま礼も言わず何かを呟いて立ち上がり、フラフラ歩き出してしまう。
私も何かを言うタイミングを逃し、その姿を見送りつつ到着した電車に乗り込む。

おっちゃんも乗ったのだろうか。電車の中の方が暖かいものな。しかし何処へ行くのだろう。
それ以来会っていない。春が来ておっちゃんも喜んでるといい。