スティルマイン -7ページ目

ボクたち

どういう文脈だったか忘れてしまったが、先日友人の結婚式で出会った少年が「ボクたちはね・・・」と言った瞬間がやけに印象深かった。



ボクたち。
こんなこと実際にあったのかは覚えていないが、小学校の卒業式で卒業生一同が言う、


一同「せんせい ありがとうございました みなさん ありがとうございました」
男子「ボクたち」
女子「私たちは」
一同「中学校へ 羽ばたきます」


この「ボクたち」だ。


ボクたち。並んで均一なボク。

あの頃、周りにはたくさんの「ボク」がいたが、同時にそれぞれのボクは(当然なのだけど)全く異なるボクだった。大人になって子供と接していると「子供性」みたいなものが前面に出過ぎ、それぞれのキャラクターが見えづらいことに気付く。色んな「ボク」たちがシノギを削り、イジメや仲間外れに恐怖しお互いの顔色を伺ったり、それぞれが言葉にするには恥ずかし過ぎる問題を抱えている混乱の時代の筈なのに。


私もまた、当然ボクたちのうちの一人だった。

大人(主に女性)がしゃがんで顔を覗き込みながら子供に問い掛ける、「ボク何歳?」「ボクはどこから来たの?」のボク。子供は子供カルチャーの中でそんなにボクボク言っていない。しかし大人はボクにもボクを押し付けたし、ボクたちはそれを素直に受け止めるだけ、当たり前に子供なボクだったのだ。


ボクボク言ってて混乱してきた。
私はあの少年に「ボク」とは呼びかけていない。だが彼はきっと今「ボクたち」の時代を生きていて、一方の私は私のボクたちが今どこで何をやっているのか分からない大人だ。一列に並ばされることを当然のことと受け入れることは二度と無いのではないか。


あの少年と東京タワーを見ながら話していた私はその時一人な大人であり、「ボクたちはね・・・」と話した少年はその時彼の「ボクたち」代表として私の前にいた。その「ボクたち」の反対に位置するのは、多分、その時の私のような、一人の大人なのだ。寂しくなったが、多分当たり前のことなのだ。


東京タワー

結婚式に出席した。目出度い。しかし苦手だ。例え新郎新婦が仲の良い人間だったとしても司会者までは知らない。知らない人間の喋るテンポはそれだけで疲れさせられるのだが、結婚式の司会は特に苦手だ。


新婦が私の友人なのだが他の出席者に私の知り合いは一人も居なかった。居心地悪い。同じテーブルの女の子たちに話を合わせつつ、良い子にしていようと努めた。

しかし、やはり疲れるのだ、テンポを合わせるのは。目出度いのに。


司会者による新郎の紹介に「へーすごーい」「カッコ良くて金持ちだー」と周りが囁くのに対し、「あの男浮気したんだぞ!泣かしたんだぞ!」と心中に突っ込みを仕舞いつつ「何で来てしまったのだろう」と孤独にビールをちびちび飲んでいた。


お色直しを終えた新郎新婦が再入場。会場が暗転し、ケツメイシの「さくら」が流れ始める。一人「ブーー!!」と噴出しそうになった。イントロが終わる「(・・・チャララララン!)桜舞散る・・・」の「桜」の瞬間ドアがバーンと開き、スポットバーン、新郎新婦登場。
こっちが恥ずかしくなる。この曲結婚式で使われ過ぎだ。もう反射的に笑い出してしまう。

・・・私もいつか使おう。イントロと同時に会場が一斉に「ブーー!!」だ。


そんなくだらん妄想を分かち合える場ではなく、「わーキレイだねー」なんて同じテーブルの子たちが携帯でバシバシ撮ってる中、私一人妄想の愉快さに笑いを堪えていた。凄い悪者になった気がした。


酔いが回った体育会系な新郎の友人たち(声でかい)が馴れ馴れしくしてくるのを流すのにも疲れ、新郎新婦への質問タイムの和やかさと司会者の笑い声に耐え切れなくなった私は新婦の親戚テーブルにいた一人の少年(8歳、スレた感じ)を誘い、会場となったホテル内の探検に出かけたのだった。


他の披露宴に侵入した。少年に「かわいいですね。仕事何時までですか。」とセリフを与えロビーのお姉さんをナンパさせようとした(嫌がられた)。最上階に上がった。エレベーターホールから東京タワーが見えた。しばらく二人で眺めた。



リリー・フランキーの「東京タワー」が評判良いが、まだ読んでいない。きっと感動するのだろう。東京タワーが作中でどういう扱われ方をしているのか知らないが、私にとっても東京タワーはノスタルジック・スポットだ。首都高から見るのも中々だが真下から見上げるのが一番好きだ。本当でかい。


少年「キレイだね」
私  「それだけじゃない。エロいのだよ」
少年「エロい?」
私  「あの色がたまらんのだよ」


少年に「エロさとは何か」を力説し、なんとか理解させた。会場に戻るとそろそろクライマックスだった。遊び過ぎた。


新郎新婦と両家の両親が並び、新郎が挨拶する。涙ながらのその挨拶は感謝の言葉がぎっしり詰まっていた。

月並みだ。だが月並みなことは月並みにしか言えないのだろう。
そして私もまた月並みに泣きそうになるのだった。


サンズ

公衆トイレは汚いから好きではない。しかしどうしょうもない状況もある。


飛び込み、はーと安堵しつつ周りに目を遣ると用を足しているのはみなじいちゃんだった。端的にびっくりした。
4つの小便器に3じじい。オセロだったら私もじいちゃんになるところだ。



つまりだ、この私同様並んで用を足しているじいちゃんたちが出しているそこからすなわち人類繁栄、ということじゃのう。私はまだ繁栄させてないのう。まだまだじゃのう。



「おじいちゃーん!」と孫たちに囲まれる昼下がりのじじいな自分を空想しつつ、「いや一人ぽっちの老後かもしんねえよなあ」とちょっぴりおセンチになりつつ、「そもそも老人になれるのだろうか」とまで考え暗くなりながら一足先にトイレを出た。後から入ったのに一番先に出た。



物語り

オフィスビル街にある陸橋の上、人通りの激しい中一人の中年サラリーマンが立ち止まり、そびえ立つビルを携帯のカメラで撮っていた。遠目から彼の存在に気付いてはいた。


なんだかぽっかりと日常が区切られ、そこだけきれいな雰囲気が支配していた。立ち止まる彼を避けて通り過ぎるサラリーメン。
近づくにつれ微笑んでカメラを覗いている彼の表情に気付き、私はハッとしたのだが、そのまま歩き続け電車に乗り、家に帰った。


部屋でくつろぎながら彼のことを思った。あの時彼は何を撮っていたのだろう。


あのビルに新しい職場があるのだろうか。あるいは息子、恋人が居るオフィスか。それとも転職が決まり、古巣を撮っていたのだろうか。
あのやわらかい表情はなんだったのだ。もちろん分かり得ない。



子供の頃に見た夢を思い出した。私は家の近所、昭和な風景の中でものすごく大きいザク(わるいロボット)に追われていた。
ザクは執拗に私を追いかけ、私は何度もフェイントをかますのだが諦めてくれない。号泣しながら逃げた。猛スピードでボクは。

そこへガンダム(せいぎのロボット。つよい)が現れた。コックピットが開き、「逃げろ早く!」と主人公が私に叫んだ。私は「ガンダムが来た!やった!」とテンションが上がり、戦うガンダムを振り返りながら逃げ延びた・・・


夢の中で私は「逃げ惑う男の子」の役をチョイスした。目が覚めた時、それがなんだかショックだった。ガンダムに乗りたかった。



私はきっと、物語っている。物語る。物語っていく。
しかし物語る私は決して主人公になることはできない。ただの、目、耳、舌、鼻、皮膚でしかない。


だからか、日常での具体的な私は常に主人公でいたい。半径5メートルの世界では。私が物語らない世界では。




陸橋の上の夕暮れのあの瞬間、太陽、ビル、行き交う人々は携帯を掲げる彼を浮き上がらせる為だけに存在していた。彼はあの瞬間、風景すべての中で主人公だった。


私は彼に、彼が纏っていた様々なストーリーに嫉妬したのだ。
急に私を風景に変えたから。私に彼を物語らせるから。


はちきれんばかりの笑顔でおっさん顔の幼児が

またがり、ガラガラと足で蹴って進む子供用の車。「なんて非効率的な乗り物だ」とかねてから存在自体を疑問視していたのだが、先日近所で疾走していた男の子はかなりのテクニシャン、素晴らしいテクニックとシワシワで乾いた感じの渋いフェイスを持っていた。


――やるじゃないか。ナイスコーナリングだ。


そう声をかける間もなく彼は疾走して行った。ガラガラガラ。

そう、彼は風だった・・・



記憶に無いのだが幼稚園の頃の私の愛車は三輪車だったらしい。自転車を飛ばす近所のお兄さんたちの後をキコキコと追っかけていたそうな。

「皆自転車持ってるのにあんた一人だけ三輪車でかわいそうだった」と母親はその状況を改善できるただ一人の人間であるという事実を都合良く忘れ、大人になった私に涙ぐみながら語った。流され、遠ざかっていくおしんの叫ぶ声が聞こえた気がした。



格好良く愛車を操っていた少年はそんな湿った感情からは完全にアウェイだった――そう、彼は風だった。


おそらく1年、2年後には体も大きくなり愛車から引退せねばならないときが来るのだろう。その瞬間まで自転車なぞに負けないスピードで疾走していて欲しい。



ちなみに、甘やかされ放題な親戚の子供のマイカーはバッテリー駆動だった。すぐに飽きたらしく全く乗っていなかった。「乗れ、乗れるうちに」と言っても嫌がる。そらまあ親が勝手に与えたのだからしょうがないな。お前は悪くない。

私がやったミニカーは「消防車!消防車!」とあんだけ喜んでたのにすでに紛失、その存在自体を忘却していた。もう買ってやらん。

たまちゃん

きっと私は「先生」な存在に恵まれていない。或いは単に記憶力が悪いのだろう。学生時代に出遭った良い先生、恩師を思い出すことができない。
しかし私自身が「先生」と呼ばれていたことが何度かある。そのうちの一つは若い頃に経験した小学校のプールの先生だ。



夏休みにだけ小学校のプールに現れ、前に出て体操したり水泳を教えたり監視したりする。カネモチ学校だったからかそこそこ金も良く、日にも焼け、プールも泳ぎ放題の良いバイトだった。


私はその小学校では当然「先生」と呼ばれていたが「たまちゃん」とも呼ばれていた。何故か。


夏だけサーファー気取りだった私はそれらしいナリをし、長めのサーフパンツを穿いていた。
ある日パンツをまくってプールサイドに座っていたら隙間ができていたらしく、向かいに並んでいた男子たちが「・・・たまだ」「見えた・・・」とざわめき始めた。だからにこやかにオープンした。大サービスだ。


実際はサポーターがあるから見えるわけない。しかしそのパフォーマンスから速攻あだ名がついた。

「見えた!」「たまが見えた!」・・・ってお前らは何を喜んでいるのだ。本当に嬉しいのか?

だからその夏の私は先生であり「たまちゃん」だった。



たまちゃーん、へっへっへと舐めてかかってくる子供たちはプールへ放り投げた。ガキに舐められるのは許せない。私は大人だ。
しかし侮れない。子供たちは群れると急に性質が悪くなる。
夏休みも後半になると私の体は日焼けで何回も剥ける。あいつらは本気でヒリヒリする背中を叩きにかかって来た。だからこっちも本気でキレた。子供らを次々放り投げては悪役レスラーのように笑った。

――ザマミロ!たまちゃんを舐めるな!たまちゃんて言うな!



ある日高学年の授業を終えると男子更衣室がざわめいていた。
着替えを終えた一人が息を切らしながら出てくる。どうしたのかと思いきや「先生!及川(仮名)が水着脱いだら立ってた!立ってた!」と嬉しそうに報告してくる。何故目が輝いているのだ。
「もしやいじめか?」とも思い、すかさず「そらしゃあねーなあ、そういうもんだ、はっはっは」と及川のフォローにまわったのだが当の本人は誇らしげに「へへへ、どうです」てなもんでさながら英雄のように周りを引き連れて更衣室から出てきた。安心しつつ「立たすな!」と頭をはたいた。
彼は更衣室でその部分にタオルをかけ、周りに自身のプライドを誇示したらしい。まさに英雄だ。アホか。


マセ始めるこの年頃はなんとも子供でなんとも不恰好だ。どんどん大人になっていく。女子の方がアンバランスだったと思う。
同級生たちの中にいたら子供でしかないのに若い男の先生の前に立つと妙に色っぽい表情を見せてくる女子もいた。「たまちゃん彼女いるの?」なんて照れながら聞いてきたり。一丁前か。男子はタオルかけてるのだ。てかお前らまで「たまちゃん」て言うな。女子だろ。


そんな風に生意気だった女子も今では・・・いくつだ。想像したくない。成長、侮れん。



当時の私にとってはただの楽しいバイトだった。
みんなは先生だった私を覚えてくれているだろうか。あの夏、たまちゃんは楽しかったぞ。

the end of our future

飲みの席で「俺らもそろそろ終わりから人生を設計していくトシだよなー」と分かったふうなことを言い出した友人に腹が立ち「人生が終わるって誰が決めたんだ馬鹿。死んでもずっと続くかもしれんだろが」とわざわざSFチックな設定まで持ち出しつつ無理矢理絡んだら微妙な笑顔で「まあまあ」とたしなめられた。「まあまあ」って全員にたしなめられた。
夜中に2回吐いた。悔しい。



宝物

夕飯を一緒に食おう、と知人とスパゲティ屋に行った。彼は5歳児を連れて来た。
5歳児は内側が七色に光るムール貝(美味かった)の殻を持って帰ると主張。「汚い」と諭すも強く主張。通しやがった。新しい宝物だ。


家で一緒に風呂に入った。
手に入れたムール貝の殻をせっせと洗う少年。へっついている貝柱に苦戦する。


少年「ボク自分のおなら食べたことあるよ」
私  「何処でだ。そもそもおならは気体だから食えん」
少年「気体?」
私  「気体だ」



少年「おならが?」
私  「気体だ」


貝殻はきれいになった。もの凄く嬉しそうだった。
しかし2日後くらいには他の新しい宝物に夢中になるのだろう。そして古い宝物はがらくたになって数年後に押入れの奥から出てくるのだ。



私は幼い頃の宝物たちを捨てられぬまま大きくなってしまい、大きいクッキーの缶に入れ、ガムテで封をしずっととっておいた。ずっと中は見れなかった。


しかし数年前の引越しの際、そんな「センチメンタル・俺」に嫌気がさし、捨てた。

マンションの燃えないゴミ置き場にそれを置く。その他、捨てづらかった色んなものをどんどん捨てた。



夕方、引越しの前日にゴミ置き場を通り過ぎると、私が捨てた宝物入れを今まさに開けようとしているおっさんがいる。
ゴミ置き場にリサイクルの業者(やその他のひと)が目ぼしいものを探しに来ているのは知っていた、しかしまさか私の宝物入れが関心を引くとは思わなかった。思わず声を出した。


「それは私のだ。触らないでください。」


ゴミ置き場に捨ててあるのだから誰のものでも無いのだろう。ただのゴミだ。
だが、その宝物は私のだ。


おっさんはぼーっと私を見、また封を開けにかかった。中からバラバラとビー玉や初めてばあちゃんに買ってもらったキーホルダー、色んなものが落ちた。

顔が熱くなったがもう何も言えなかった。見ておれず、そのまま部屋に戻った。辛かった。



きっと宝物はちゃんとガラクタになってしまう方が幸せなのだろう。
或いはどんな宝物があったのかすら忘れてしまう方が。気付かないうちに無くなってしまう方が。


それ以来、かいつからか私は殆どモノに執着しない。そんな風に考えるようになったからかもしれない。
しかし少年と二人風呂で眺めたムール貝の殻はきれいだった。1枚貰っておくべきだった。


猛スピードで少年時代は

夕暮れ、友人らとの待ち合わせ場所へ向かう為駅へ向かっていた。少々遅れそうだ。
小走りになりながら、自分の視線が足元にあることに気付いた。
又か・・・最近気をつけているのに。


私はだらけて歩いていても早足の時でも足元を見ながら歩く癖がある。
嫌な大人だ。ほんとうは上を、前を向いて歩くべきなのだ。



と目を上げると前方からチャリの少年が立ちこぎで突進してくる。
全く気付かなかった。その勢いにビビり、口から情けない声が漏れた。
やはり前を向かなければならない。少年たちは猛スピードだからだ。


それにしても彼らはいつも全力で自転車をこいでいる気がする。何故なのだろう。私にも少年時代はあったのに今となってはそのパワーの源を私の内側に発見できぬ。



彼は私の直前で急ブレーキをかけ、「あ、〇〇くんのおばちゃん!ともだち〇こ!おはヨーグルト!こんにちワイン!」と一人の主婦に向かって叫んだ。


な、なんてこった・・・。
そのおばちゃんが例え彼のともだちだったとしても決してち〇こではない。お下品なうえに言葉が乱れ過ぎだ。



――少年よ、もう夕方だから「こんばん」ワインだ。

   第一こんにち「ワイン」じゃない。こんに「チワワ」だ。



顔を上げ、駅へ急ぐ。
きっとすれ違った少年は家で待つ夕飯に向かって疾走しているのだろう。

一方私はだらけたともだち〇こたちのもとへ向かわねばならない。


「さいならっきょ」だ、少年時代――ぽっくんはもう大人だ。

猛スピードで爺が

デパートの屋上に車椅子に乗ったじいちゃんがいた。昼間だってのにしかめっ面で一人ビールを飲んでいる。駄目なじじいだ。

曇った小さなゲームセンターにはちらほらと家族連れがいた。券売機の前ではカップルがどれにしようか迷っている。


そんな中じいちゃん同様ぼけっとビールを飲んでいた駄目な私は彼を眺めながら「I need some freedom! freedom for my people!」とスラムの街角で一人歌う黒人のじいちゃんを思い出していた。何故かかぶった。


じいちゃんは自販機へゆっくりと移動した。車椅子だから買いづらい。
もたもたしているので「どれがいいの?」と手伝った。するとじいちゃんは「おお!ありがとう!」とえらく感激してくれた。せっかく買ったジュースを飲まずに、


「行こう!!兄ちゃん!!」


と私を引っ張る(とは言え車椅子を押すのは私だ)。この良く分からない展開に思考停止したままデパート内の蕎麦屋へ入った。


席に着くなりじいちゃんは次々とオーダーしまくる。常に手持ちの少ない私は少々不安になった。身なりからじいちゃんも裕福には見えない。


飲みながらじいちゃんは「俺は嬉しかったんだ、兄ちゃんに会えて良かった」と言ってくれた。30回位繰り返された。

日本酒を勧められ、私も「じいちゃんに会えて嬉しいよ」と注ぎつ注がれつ飲み続けた。もの凄いピッチで飲んだ。ロクな話はしなかった。ただお互い「会えて良かった、会えて良かった」と繰り返してた。



短時間で二人とも泥酔し、店を出ることになった。所持金にビビりながらレジへ向かうとじいちゃんが「兄ちゃん、いいから!」とポケットに手を突っ込む。出した手にはくしゃくしゃに折りたたまれた札束。


――じじい・・・駄目仲間だと思ってたのに・・・いくら持ち歩いてるんだ。


自分の分は払う、と言っても「いいから!」と力強い声。ご馳走になってしまった。きっと私が身なりからも裕福に見えなかったのだろう。


車椅子を押してエレベーターに向かった。傍目に私は孫に見えただろうか。じいちゃんに家族はいるのだろうか。


ふと「この後どうすれば良いのだ」とよぎった。

じいちゃんはだいぶ酔っている。大丈夫だろうか。帰れるのだろうか。送った方がいいのだろうか。

するとじいちゃんは「ここでいい、楽しかった」と力強い声で言い、一人にこやかにエレベーターを降りて行った。ぽかんとする私が残った。



じいちゃんは何処へ向かったのだろう。私が彼を年寄り扱いし、気を遣おうとした瞬間を読まれた気がしてならない。


しかしじじいはじじいだ。どうかお達者でいますように、と祈ることは許して頂きたい。