ばあちゃんワズマイン5 | スティルマイン

ばあちゃんワズマイン5

人生が瞬間瞬間の選択でできあがっているのは言うまでもない。Aを選んだから、Bでなかった。


ばあちゃんは、祖父の後妻として遠方からやってきた。クリスチャンなばあちゃんは結婚を境に信仰を完璧に隠した。ほぼ無宗教な家柄の中、ばあちゃんはこっそり何をどうウマくやっていたのだろうかと改めて思う。

ばあちゃんは幼い私を可愛がってくれ、私は増長できた。纏わり付き甘えったれることができ、「愛されちゃっていいのだ」と自信が持てた。
実家には産まれたての私の写真があり、その中の私(とても可愛らしい)はばあちゃんに抱っこされている。自分の子どもが居ないばあちゃんにとって、私は初孫である以上に初赤ちゃんだったのだと後年理解した。そして成人後に帰省したある日、ばあちゃんから「ほんとはね」と隠されていた信心についてこっそり教えられ、酷く驚いた。親戚の殆どがこのことを知らないと思う。私もすっかり「ナンマンダ」なばあちゃんだと思っていた。


ばあちゃんが死んだとき、やって来た寺の坊主は「ばあちゃんの血と思いは皆に伝わっていく」といったありがたいことを言った。私はどうにも面白くなく、和やかな通夜の席で「ばあちゃんは誰とも血が繋がっていない、あの坊主はインチキだ」と一人泣いた。子供連中は「兄ちゃんどうした」とドン引いた。荒れる私に叔父は「血は関係ない」と叱ったが、それは本当なのか。
家族としてばあちゃんと関わり続けた叔父に対し、私は立場的に弱かった。悔しく、泣きながら叔父に絡み続ける私は他の大人連中から「まあまあ」と窘められた。面白くないまま酔い潰れ、そのままばあちゃんのそばに放置された。




死んでから大分経った。ばあちゃんは隠れキリシタンであったが、ナンマンダな墓に入ることには納得していたようだ。
ばあちゃんの墓は叔父の家から車で10分ほどにある小さい山を登り、向こう側へ下りかけた中腹の墓地にある。私は相変わらず単調な日常を送り、墓参りに行かない選択をしている。私は、どんどん歳を取っていく。滅多に帰省することはない。

ばあちゃんを思いながらぽつねんと酒を飲むのも選択だ。こんな感じで過去をフラフラするのもただ生きていることもそうであり、昨日「死なない」と選択したからに過ぎない(「遍在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きていくのだ」)。一人でいることを選択し、自分の都合でばあちゃんを思い出し、今日のように無駄に泥酔する。血とは何だと思う。


厳格だった祖父は亡くなる直前、意識が朦朧となりながら「お母さん、お母さん」とばあちゃんを求めた。前妻の死後ばあちゃんを選んだその選択は大きな跳躍であり、以降の人生を決定したと思う。本人の自覚は関係ない。
過去に存在した選択肢は振り返られたときに見出され、そこから「選ばなかった未来」が想像されるのみであり、現在の私はただ無駄に、本当に無駄にただ胸を痛めているのだと思う。これはばあちゃんとは関係ない話だ。でもばあちゃんに会いたいと思う。


ばあちゃんワズマイン おわり



追記
言い過ぎたと思う。